2011年 10月 25日
Photo Stream ~ 地蔵の振袖のおはなし ~ 七ヶ宿町・宮城県 |
2011_10_07_16:11
宮城県七ヶ宿町は県南西部に位置し山形県に隣接する山間(やまあい)の静かな町です。
江戸と陸奥白河(福島県白河市)を結ぶ奥州街道の先、仙台道の陸奥桑折(福島県桑折町)で分岐して日本海側に抜ける羽州街道の宿場町として古くから賑わっていました。
七ヶ宿という名前も、東から一里ごとに上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原、の七つの宿場があったことに由来しています。
特に参勤交代が義務付けられてからは出羽国(秋田県や山形県辺り)や陸奥国(青森県辺り)の大名行列が往来するようになり、行商人や出羽三山詣など庶民の通行も増えていきました。幕末頃の関宿本陣は東海道品川宿本陣と同じくらいの広さがあり、一晩に200人もの宿泊客を泊めることができたそうです。
今では奥羽本線など福島から米沢に抜けるルートが主流になっため、人や車の往来が減りかつての賑わいは影を潜めています。
参勤交代の時代、ある秋田藩のお殿様が羽州街道を通って江戸に向かっている途中、七ヶ宿の滑津宿の辺りで美しい娘を目にしました。大名行列が通る時は庶民は平伏しているはずなので顔を見ることは出来ない気がするのですが、とにかく娘の美しさに心を奪われてしまったのです!
お殿様は一目で娘のことが気に入ってしまいます。江戸に着いても寝ても覚めても娘の顔が頭から離れません。遂にはお殿様の特権を利用して帰国の時に侍女として地元に連れて帰ることを決め、1年の江戸暮らしを終えて喜び勇んで七ヶ宿へ向かいました。
ところがその娘は病に倒れ既に亡くなっていました。
お殿様はそれはもう大変な悲しみようで、娘の供養のためにお地蔵さまを作らせました。
享保20年(1735年)のことです。
そのお地蔵さまの顔はとても器量が良く、衣の袖は振袖のように刻まれています。亡くなった娘を想像し似せて作らせたのだと言われています。
関宿の西のはずれにもお地蔵さまがあります。
まるで振袖地蔵と向かい合うように、西(滑津宿)の方を向いて座っています。
未練たらたらのお殿様が自分の分身として作らせたと伝えられています。
この2体のお地蔵さまは恋仲と噂されているそうで、向きを変えても知らないうちに元に戻るのだそうです。
おそらくお殿様の片思いなのですから向きが戻るのは関の地蔵の方でしょうけれど。
このお話は七ヶ宿町のおとぎ話として伝えられています。
かつての羽州街道は現在国道113号線として、宮城県白石市から西の七ヶ宿町、山形県高畠市、南陽市を結んでいます。
白石市の「白石女敵討(あだうち)物語」、七ヶ宿町の「振袖地蔵」、高畠市の「泣いた赤鬼」、南陽市の「鶴の恩返し」とそれぞれの町を代表するおとぎ話があり、この区間の国道113号線は「みちのくおとぎ街道」と名付けられています。
こうしたおとぎ話の舞台となった場所を歩いてみるのも面白いですよ。
皆さんにとって心に残るおとぎ話はなんですか?
紹介した「振袖地蔵」の話は少々アレンジしてあるので公式の解説文も載せておきます。
「振袖地蔵」
その昔、秋田藩の殿様が参勤交代で江戸へ向かう途中、この地で一人の美しい娘を見染めました。
殿様は、その後もこの娘を忘れられず、帰国の際に侍女に召そうとしましたが、娘はすでに病死していました。
殿様はこれを深く悲しみ、供養のためにお地蔵様を建てたといわれています。
このお地蔵様が建てられたのは、享保20年(1735年)で約2メートルの高さがあり、器量がよく、衣の袖も振袖のように刻まれているのは、娘に似せて刻ませたためであるといわれています。
なお、関宿の西はずれに坐像のお地蔵様が西(滑津宿)向きに建てられていますが、振袖地蔵と互いに向き合って立っていてることから恋仲といわれ、向きを変えてもいつの間にか元にもどると言われています。
(七ヶ宿町教育委員会)
/* ----- 七ヶ宿町 - 宮城県 - 2011 - Nikon D700 ----- */
♪ ぼうや~
by kidai_y
| 2011-10-25 21:39
| 写真:日本