2012年 09月 12日
PHOTO REPORT ~ 雲上の楽園・・・ ~ 松尾鉱山@八幡平 |

2012-7-1_12:11
雲上の楽園
雲上の楽園。
かつてそう呼ばれた場所は今、錆びた製錬所跡や崩れかけた鉄筋マンションだけが残る廃墟になっています。
ブナやミズナラなどの落葉広葉樹林が多くを占める八幡平の中で、その場所の周りには木がほとんど生えておらず、ススキやクマザサの生い茂る草地が広がっています。
松尾鉱山
岩手県八幡平市(旧松尾村)、スキー場などもある八幡平温泉郷から県道23号線(アスピーテライン)を秋田方面へ30分くらい走った標高900mの高原に松尾鉱山がありました。
1882(明治15)年にこのあたりで硫黄の露頭(鉱物の塊が地表に現れている部分)が発見されます。1914(大正3)年に松尾鉱業(株)が設立されてから本格的な硫黄の採掘と精錬が行われるようになり、1935(昭和10)年頃から生産量が急増し、国内需要の約8割を占めるまでになります。
それに伴い周辺には鉱山町が形成されました。
1935(昭和10)年に4,145人、1940(昭和15)年に8,152人、最盛期の1960(昭和35)年には13,594人に達したといいます。
当時は画期的だった水洗トイレやセントラルヒーティングを完備した鉄筋コンクリート作りの集合マンションが建設されたほか、小中学校、病院、劇場などが揃った都市が、八幡平の高原の中に出現しました。
1914(大正3)に敷設された鉄道は、最初は7キロほどの距離を手押し車で移動するようなものでしたが、1934(昭和9)年には蒸気機関車が導入され、1951(昭和26)年には電化が実現し上野駅からふもとの東八幡平駅まで直通列車が運行されるまでになります。

閉山へ
活況に沸いた松尾鉱山も、1960年代に入ると状況が一変します。
この時期、国内では公害規制が重要視され始めるのです。
1910年頃 イタイイタイ病、1956年 水俣病、1965年 第二水俣病(新潟)、1960年 四日市ぜんそく、など相次いで大きな公害問題が発生します。
石油精製時に義務付けられた脱硫過程により、安価な硫黄が生産されるようになると採掘ではコストがかかりすぎるため、次第に生産量も減少していきます。
1969年(昭和44)年、松尾鉱山(株)は会社更生法を申請して倒産します。その後新会社を設立して立て直しを図りますが、1972年(昭和47)年に遂に閉山となります。
鉱山と公害問題
閉山となった理由には硫黄の市場価格に対抗できなくなったことの他に、
もう一つ大きな理由があります。
「公害問題」です。
もともと硫黄を精錬するときに出る煙によって鉱山周辺の土壌が強い酸性になってしまい、八幡平の森は草も生えないような荒地になっていました。これだけでも大きな環境破壊といえます。
更に重大な問題が「鉱毒水」でした。
硫黄精錬の時に使う水は強い酸性になってしまいます。また廃坑から流出する排水は、ヒ素を含むpH2前後の強酸性でした。
毎分17~24トンの大量のヒ素を含む強酸性の排水が松尾鉱山から下流の赤川、北上川にそのまま流れ込み、岩手県内はもとより、宮城県北部、北上川が流れ出る太平洋沿岸にまで甚大な影響を及ぼすことになったのです。
1932(昭和7)年には周辺住民から岩手県知事宛の嘆願書が提出され、メディアでも取り上げられて社会問題へと広がっていきます。鉱山側は様々な対策を取りますが解決には至らず、1948(昭和23)年の松川用水路完成まで鉱山は多額の賠償金を支払い続けることになります。
現在は1982(平成)年に稼働した中和処理施設が、24時間体制で大量の汚染水を毎分18トンのペースで中和しています。この施設による処理費用は年間5億円以上かかり、岩手県にとっての大きな負担となっています。
経済活動と公害問題。
今も昔も変わっていません。
原発事故が公害と言えるかどうか分かりませんが、汚染物質による自然うや人体への影響、人がいなくなってしまった町、閉山後(廃炉後)もずっと続く様々な処理作業。
時間がかかっても、再び「雲上の楽園」が戻ってくればいいですね。

/* ----- 八幡平市 - 岩手 - 2012 - Nikon D700 ----- */
by kidai_y
| 2012-09-12 21:28
| 写真:日本

