2007年 08月 30日
旅文 01-09 「プノンペンの夜 後編」 |
既に午後9時に近い。
月の出ていない闇夜はやけに黒い。向かいのビルの1階は何やらの商店のようだが、上の階は人がいるのかいないのかの判断が困難だ。明かりの付いている窓もあれば、窓が嵌っていない場所もある。目と鼻の先にある大通りは、交通量は大分少なくなっている。時折バイクのバックファイアーの乾いた音が響く。知人がかつてプノンペンに居た時、この音を銃声と聞き間違えて怖かったと言っていた。アンコールワット周辺は観光客が年々急増し、治安も昔と比べて良くなりつつあるらしいが、未だにこの街は物騒であることに変わりはない。
「あ、バイタクの兄ちゃんだ。手振ってる。何だろ」
彼女は階段を降りていった。すぐに彼女は宿の影から現れて、バイタク御用達の排気量200cc程度のバイクが数台停まっている斜め向かいの街灯の下に立って、ニコニコしながら手を振っている若者の傍に行った。僕は宿の2階の手摺にもたれながらそれを眺めていた。暫く立ち話をしていたが、彼女はこちらに戻り宿の影に見えなくなり、僕の傍の階段口から姿を現した。
「あの兄ちゃん、いい人でさあ。これから遊びに行こう行こうって言うから、ちょっと行ってくる。あの子?いいよ。帰ってこない方が悪い。こんなに待ったのに。え?あそうか、部屋の鍵どうしよう」
いやな予感がする。
「ああ、ねえ、ここ泊まってるんだよねえ。もう寝ちゃう?よかったら鍵預かっててくれない?私らの部屋ここなんだけど(今いる廊下に面したすぐ横の部屋を指した)。あ、奥の方の部屋?近いじゃん。あの子に書き置きをドアに挟んでおくから。部屋番号教えて?帰ってきたら、私は昼間のバイタクの兄ちゃんと遊びに行ったって言っておいてね。一応書いておくけど」
彼女はすらすらとメモを書き扉に挟むと、鍵を僕に渡して階段を降りていってしまった。暗いから気を付けてな、と言ってはみたものの、何だか相応しくないような気がした。もうすぐ結婚するという占いは当たるかも、旦那はカンボジア人かも、と思ったが口には出さなかった。
2人はバイクで夜の町に走り去った。
通路には、僕と涼んでいるオジサンだけになった。ふにゃふにゃの短パンにTシャツを着たオジサンは蚊が気になるらしく、しきりにぱちんぱちんやったり蚊取り線香の位置を調整していた。ここは本当に蚊が多く、さしもの僕でも被害は免れられないと思ったので部屋に戻ることにした。それに、オジサンと2人きりで夜空を眺めていてもあまり楽しくはない。
シャワーを浴びてベッドの上に仰向けになりぼんやりしていると、あの2人のことが少し心配になった。ここはプノンペンだ。単独で夜中に外出するのは如何なものか。危険だという確証もないが、安全だという保障もなく、何事も起こらなかったとしても結果論に過ぎない。真夜中近所のコンビニに立ち読みしに行ったり、コンパで酔っ払って終電で家に帰ったりするのとは訳が違うのだ。そんなことを考えながら、窓のない部屋で日記を書いていた。
誰かがノックしたので立ち上がって扉を開けると、太い横縞のTシャツを着たショートカットの女の子が立っていた。それほど酔っている感じには見えない。
「あ、どうも、あ、お久しぶりです」と彼女は言った。
「あの子、遊びに行っちゃったんでしょ?バイタクの人、色々話してくれて面白かったしいい人だったんだけど、ちょっと心配」
お互い様だ、と思う。
「え?私のことも心配してたんですか?なんかカクテルバーみたいな店に行って。うーん、そんなには面白くなかったです」
持て余していた部屋の鍵を返した。
「鍵、ありがとうございました。おやすみなさい」
次の朝早いうちに僕は宿を出たので、その後の彼女達のことは分からない。肝の据わった彼女達のことだから期限内にベトナム、ラオスを抜けてタイに戻ったことだろう。2、3日は気になったが、すぐに忘れてしまった。
( 2002 / Phnom Penh / Cambodia )

※写真は1998年のものです。
by kidai_y
| 2007-08-30 23:59

